努力できる才能

そーいえば天才プログラマ云々絡みで前から思っていることをふと思い出したんですが,よく「努力すれば良い」って言いますよね?あれって,努力すれば何でもできる,すげぇ,頑張ろう,と一見思えてしまう魔法の言葉だけれど,実は「何かに対して努力できることそれ自体1つの才能だ」と考えてしまうのはさすがに pessimism が過ぎますかね?
以前,これを友人に言ったら「お前は人間の自由意志を否定するのか?」って半ば本気で怒られちゃいましたけれど,別にそんな高尚な議論を吹っかけるつもりは全然なくて,単に自分がかなりの気分屋で,好きで面白いと思える対象にだけにしか心血を注げない人間で,「努力」という言葉の意味が未だによく理解できないからこんな考え方してしまうんですが.
そもそも「努力」って言葉は,自分の中では「自分が好きでない対象に対して力を注ぐこと」というイメージがあるので(自分だけかも知れませんが),そういう意味では自分は「努力」というものをした覚えが全くない.自分がやってきたことは全て,あくまで「遊び」もしくはそれの延長であって,そして少なくとも「遊び」は「努力」してするものではないのは確かなわけで.
とはいえ,遊ぶためには普通何らかの努力が要求されるわけで,小学生に対する説教よろしく,例えば遊びに行く前に宿題を片付ける努力が必要になる.気分屋の自分が,努力を避けつつ何としても遊びだけを成立させるためには,単に宿題をすっぽかすか(これが一番多い),宿題を努力の対象ではなく遊びの延長として捉えなおしてしまうか,もしくは宿題そのものを1つの遊びにしてしまう.これしか逃げの手段がない.自分も天才プログラマとかになりたいとは思いますけれど,別に天才プログラマとかにこだわるつもりは全然無くて,単に「遊び」を究めた先にあるものなら何でも良いわけです.ただ,天才になるためには1%の萌えと99%の「努力」とやらが必要条件であることは過去の偉大な発明家もおっしゃってましたが(一部記憶違いがあるかも知れません),自分の場合,苦労して努力して天才プログラマとかになるっていうのを全く想像できないし,自分には絶対に無理だと早々諦めている.「遊び」の帰結を結果的に評価されている自分しか想像できない.なので自分は「努力できる才能」を持っている人が純粋にうらやましいし,ねたましいのです.
まあこんだけぐだぐだ書いていますが,結局,単に自分の年齢ぐらいの人間に備わっていて然るべき責任感とかが完全に欠落しているだけじゃねーのか,という…….